すべては漂っている

本や日々のことについて書きます

どうすればよかったか?『どうすればよかったか?』

 

『どうすればよかったか?』藤野知明 (文藝春秋・2026)を読んだ。

 

統合失調症を患った実の姉を撮ったドキュメンタリー映画のノベライズというか補足の話というか、そんな内容。

…と紹介しながら、自分自身は映画は未視聴である。

予告の段階から気になってはいて、都会に住んでたら見に行けたけど…って感じ。

映画は時系列になっているらしいが、こちらの書籍はそうでなかったので、起こった出来事の前後関係がわかりづらい部分があった。

あとは、この病についての理解が自分でもそこまであるわけではないので、平常のときもあるのか、例えば海外に行く際の事務的な手続きはすべて自分でつつがなくできるものなのか(当時はネットもなく、対人でやらなくてはいけない行程もあっただろうから)ということがわからないのが歯がゆかった。

著者(=映画の監督)としても、この病についての見聞を映像を見た人々に広げるということをおそらく目的にしていないので、「ほとんど何も知らない人がそれぞれの視点でどう見たか」ということを投げかけたかったのかなと思う。

 

内容について

著者の両親は医者兼学者で、それなりに立派な家庭のようである。

(父親は叙勲もされている)

そのような環境で、父も母も家系から精神的な病の患者が出るわけがないと思いたかったのだと思う。

ただ、父親が料理をする描写の神経質さから、父のそのような性質が遺伝的にも環境的にも姉に影響を及ぼしている可能性はあるなと感じた。

両親は発症後の姉に研究助手のようなポジションを与え、表面的には「研究者の娘」として外面を保たせていた。

わからないでもないがそれは真に愛情というには難しい、とも思う。

このあたり、2023年に北海道で起こった、医師である父親と、おそらく精神的に問題を抱えてしまった娘による事件を思い出した。

社会的に地位のある人間は「家族の汚点」を認めることができないのかどうか、あるいは何をもってして「汚点」とするのかは私には推し量るべくもないが、どうもそのような傾向があるようにも思える。

著者の両親は姉が「正式に」病院にかかって適切な治療を受けることを拒み続け、父が老齢になってやっと著者が説得に成功して入院が実現するのだが、その説得に成功した時のあまりの呆気なさに読んでいて脱力する思いだった。

 

全編読み通して感じたのが、生涯のかなり多くの時間を統合失調症という病と共に生きなくてはいけなかった姉に対して、弟である著者がどこまでも味方だったということへの驚きだ。

姉の病を「精神病」と呼ぶことも否定しているし、父親を説得して姉をようやく入院させたときの目標が「姉と会話ができるようになりたい」だったのが、家族というものの「切っても切れなさ」を感じる。

統合失調症の一族』を読んだときに「家族はしがらむものである」と感想に書いたけど、そのことは昔も今も変わっていない。

 

今年印象に残った本2025

2025年も終わりなので今年印象に残った本を書き出してみようと思う。

 

1 『この村にとどまる』マルコ・バルツァーノ(2024)

島国に住んでいると言語の違いというかすぐそこに言葉の違う人々が暮らしているということや、母語が脅かされるということがイメージしづらいと改めて思った。

娘のことも、故郷のことも、どうすればよかったのか?という正解はない。

戦争が愚かであるということは言うまでもないが。

まず娘のことについてはもちろん戦争の問題と地続きだけど、なんというか、個々の問題をすべて「権力のせい」に帰結させてしまっている気がしなくもない。

もしかすると、自分には「国」というものへの帰属意識があるからある程度身軽になれるのであって、戦争によって時代によっていろんな国に併合されるだとか、強制的に言葉を変えさせられるような事が発生する土地では「国」ではなく「この地」こそが我らの還る場所というより強い意識が生まれるのかもしれない。

人間にとって生まれた場所との関係というものが、いかに良くも悪くも切り離せない愛憎関係のようなものであるかということを自分自身のことも含めて自覚した。

詳しい感想は以下

west-wing.hateblo.jp

 

2 『カメオ』松永K三蔵(2024)

「カメオ」というのは犬の名前で、その犬の話なのだが、犬の様子が全然かわいくなくてかわいいので面白かった。

本を読んでちょっと笑えるっていい体験。

松永さんは『バリ山行』もよかったし、今後全部読みたい作家さんだ。

 

3 『夏鳥たちのとまり木』奥田亜希子(単行本2022 文庫2025)

犯罪(ネグレクトされているとはいえ未成年を匿う大人)が美化されることなく、やっぱりあれは間違ったことだったのだと自ら過去を顧みて思う展開に、この作者はやはり信頼できると思った。

「あなたは大丈夫だよ」という言葉は、投げかけられれば救いになる一方で、投げかけた相手が助けを求めることを封じて自分を自分の中に閉じ込めさせてしまう。困っている弱き者に手を差し伸べる方法として本当に必要なのは、然るべき人や場所に助けを求められるようにしてやることなのだ。

「対等でない(偏りのある)関係がよろしくない」というのは同じ作者の『ポップ・ラッキー・ポトラッチ』

west-wing.hateblo.jp

にもあったので、奥田亜希子さんの文章の主題はそこにある気がする。

 

4 『崑崙奴』古泉迦十(2025)

あの『火蛾』の古泉迦十氏のなんと24年ぶりの作品が出た。

唐の時代の高級官僚の間で起こった不可解な連続死事件の謎を追うという話で、古代中国という設定と自分の読解力不足で読んでいてよくわからない部分もあるのだが、それでも読み進めたくなってしまうという不思議な魅力がある。

私はわりとわからないことをわからないまま進められるストーリー運びが苦手なのだが、古泉作品にはそれをあまり感じないので、自分にとって謎と情報の開示のバランスがちょうどいいのだと思う。

 

5 『YABUNONAKA』金原ひとみ(2025)

もう登場人物がとにかく怒っていて感情爆発全力で生きているので、そのエネルギーにもっていかれそうになった。

昔は疑問に思っていなかったことが現代の倫理観ではどう考えてもおかしいとか、価値観アップデート的なことは現代を生きる誰の身にも起きていることだと思うけど、過去見逃してしまった、行動しなかった、できなかった、そもそもおかしいと気付いていなかった等々という罪の意識が人々に告発という行動を起こさせて、それを見た人がまた…という連鎖のメカニズムがうまく書かれていた。

時代の変化、自分の考え方の変化にどう適応していくかということについて思いを巡らせるきっかけになった本だった。

 

6 『イン・ザ・メガチャーチ朝井リョウ(2025)

同世代作家で最もすごいと思っている朝井リョウの新作が読めたのも今年の収穫だった。推し活文化を本当によく冷静に観察しているし、それに留まらず推し活文化が生み出している現象とは細分化していくとつまるところ何なのかということにまで視点が及んでいた。

人は物語に心を動かされるようにできている。

『スター』では何かを生み出す側の視点が描かれていたが、今作では仕掛ける側と役者と受け手というそれぞれの立場からのエピソードが語られている。

途中登場人物の全員に対して「もうやめなよ」と語りかけたくなった。

朝井リョウの小説からはいつも少なくないダメージを受けるのだが、今回もしっかりつらい気持ちになった。私はこの人を完全にこの世代の代弁者だと思っている。

 

7 『言語化するための小説思考』小川哲(2025)

今回リストアップする中で唯一の新書というか小説以外の本。

自分はつねづね「なぜこの本が人気なんだろう」とか、「この人気作、読んでみたけど合わないんだよな」と感じることが多かったのだが、

世評が高い作品を楽しめないのであれば、おそらく自分の側に、あまり一般的でない小説法が存在しているのだ(P15)

とこの本に教えてもらって、合わない本を読んでイライラすることが減ったのが収穫だった。

エンタメ読者と純文学の読者の間で最も寛容度が異なるのが「ご都合主義」関連法であると小川さんは言っていて、まさしく!!と膝を打った。

私ももちろんエンタメ小説も読むけれど、ストーリーの流れを決めるのが偶然の出来事だったりするとか、その回数が多いと感じるとなんだか冷めてしまう。

また、

「読みやすさ」とは「視点人物と読者の情報量の差を最小化する」ことによって感じられるものなのではないか(P50)

とも書かれていて、さっき『崑崙奴』のところで言った「謎が謎のまま進みすぎるのが嫌い」な理由も少しわかった。

タイトルには「小説法」とあるけど、これ以外にも自分が漠然と思っていたことをなるほどこういう風に言葉で説明できるのかと納得できる記述がかなりあって、伊達に書名に「言語化するための」とついてないなと感心しきりだった。

自分がどういう人間で、何が重要だと捉えていて、何に憤っているのかということを発見できた。意外なことに、小説についての本で自分を知ってしまった。読んだ価値があった。

 

8 『黄色い家(上)(下)』川上未映子(単行本2023 文庫2025)

 

夏鳥たちのとまり木』のバッドエンドバージョンと言ってもいいかもしれない。

読み終わってすぐ、この2作は対照的な作品だと思った。

判断能力のない若い人たちが、これまた判断能力のない大人たちに身動きを取れなくされてしまうという怖さ。

主人公は自己犠牲の精神が強い生まれながらのギバーで、自分がどうにかしてあげないとこの人はだめになってしまうと思い過ぎるきらいがあるのが生まれ持った不幸としか言いようがない。自分の存在意義を見出す方法をそれしか知らないのだ。

無自覚なテイカーたちは、与えてくれるならギバーが誰だっていいというのが、読者のこっちにはもう手に取るように伝わってくるのに、なんでお前だけ気付かないんだよ花(主人公)!と肩をつかんで揺さぶりたくなる。

でも、いくら人として未熟だからと言って、主人公らの犯した詐欺等の罪が裁かれないのはやはりおかしな話で、裁かれなかったからこそ主人公が学習する機会は永遠に奪われてしまったのもまた違った形の罰であると言える。

でもわたしがわからなかったのは、その人たちがいったいどうやって、そのまともな世界でまともに生きていく資格のようなものを手に入れたのかということだった。(P134)

それを手に入れる最後のチャンスが然るべき手順で罪を自覚し、認め、償いを経てからの更生だったのではないか。考えたことなかったけど、逮捕されたり起訴されたりすることも「透明人間のような」はぐれ者たちが社会の仕組みに加わるひとつの方法なんだな。

 

以上他にもいろいろあるけど8作をあげてみました。

他にも『砂の女』を初めて読んで口の中が砂っぽくなってくるような気がしてすごく嫌だったのに今も妙にたまに思い出してしまうとか、『国宝』を原作も読んで映画も見て違いが多すぎて箇条書きするのが大変だったとかそういうトピックもあるけど今回はここまでにします。

あと今年買った未読の本もまだたくさんある。

それでも容赦なく新年はやってくるのである。

よいお年を!

【かんたん感想】『ペンギンにさよならをいう方法』

発売日 : 2025-09-27

 

今年発売された『ペンギンにさよならをいう方法』ヘイゼル・プライア著 圷香織訳を読んだ。

イギリスの作家さんの本。

 

お金持ちのおばあちゃん(相続人なし)が、もともと親交のある(?)ペンギンに財産を残す話かと思いきや、テレビで見た南極のペンギンたちの様子に感銘を受けてその研究機関に遺産を寄付しようとする話だった。

そのためにはこの目でペンギンたちを見ておかなくては…という話。

このおばあちゃんがまあ曲者で…そこをチャーミングと思えるかどうかという感じだ。

 

主人公のヴェロニカは、85歳にして単独南極行きを思い立ち、実行に移そうとする。

研究機関への連絡や、旅路の手配はメールやネットを駆使しないとできないので、そのあたりの実務はお手伝いさんがやってくれる。

翻訳者の圷さんは巻末の解説で「周りの反対を押し切って」みたいなことを書いていたけど、私は「いや、周りの人がもっと止められただろ」と思ってしまった。

お手伝いさんのアイリーンがそもそも南極にいる研究員たちと連絡を取らなかったり、航空券の手配をしなければ南極行きは実現しなかった。

メールを送った時点で、研究施設では一般人(しかも年配者)を受け入れることはできないと断られているのに(普通無理でしょ)、自分の都合のいいように解釈して押しかけてしまう様子や、研究員たちを巻き込んでやりたい放題する様子はこの物語のおもしろい部分なんだろうけど、日本人の私としてはそんな迷惑をかけたり規範を守らないことが許されるのか、終始ひやひやするような気持ちだった。

でもどういうわけかすべてうまくいくし、支持される。

物語だからうまくいくのかもしれないが、真面目に生きているのが嫌になってくる気持ちがしてくる。

日本で小さく生きている私なんて自分自身はおろか、身内が迷惑かけまくり人間になることすら耐えられない。いや、「すら」ではなく、身内の不始末って結構つらいよね。

 

物語の肝のもうひとつはヴェロニカの過去なのだが、戦争時代を生き抜くのは想像を絶する困難だっただろうとは言え、ここでは詳しく語らないが最大の苦難の発端には突っ込みどころもある…気がする。若気の至りと言ってしまえばそれまでだが…

ご都合主義の展開はヴェロニカの南極での一羽のペンギンとの出会いから受難、そしてラストシーンまで続く。

 

全編を通して強く感じたことは、イギリスという国の徹底した「人は人」主義の国民性である。もちろん全員が全員そうじゃないんだろうけど、主人公の自分勝手さを、周囲の人たちが思ったより意に介していない。

少し調べたところによれば、イギリスの人たちは他人のすることに干渉しない主義らしい。

自分の身内が人様に迷惑をかけても自分自身の責任ではないから関係ないというスタンスなのだろう。

反対に、他人のやることを認める(反対しない)余裕が慈愛の心を生むのかもしれないと思った。登場人物がみな愛情深い人物なのだ。

無関心と思えるほど他人のことでイライラやきもきしたりしない代わりに、心のあいている部分で他人を思いやれるのかもしれない。

我々はあまりに心配事や他人との比較で心を占拠されすぎているのかもしれない。

人がどう思うかとか、迷惑がかかるとかを考えず、自分主体で生きているのが本書の登場人物たちだ。

 

原題は「AWAY WITH THE PENGUINS」とのこと。

withをどう捉えるかだけど…素直に取るならそのペンギンたちと共に去る(去れ)というところか。動詞がないからawayの前に何かgoとかpassが省略されている…?

ペンギンと共に死すとか売れないタイトルつけちゃいそう自分なら。

「方法」はどこから出てきたのかな。ヴェロニカはペンギンにさよならする方法を模索していたわけではないし…なぜこの邦題にしたかを翻訳者さんに聞いてみたい!

 

難しいところはひとつもないので、ちょっと海外文学を読んでみたいなという人におすすめ。

【かんたん感想】『帰れない探偵』

自分が大事にしたいことは何かと思ったときに拙くてもいいから文章を発信することだと思い、ならばブログの頻度を増やそうと思い立ち、まとまっていなくても簡単な感想でもいいから書いてみることにした。

 

著者 : 柴崎友香
発売日 : 2025-06-26

 

『帰れない探偵』 柴崎友香

主人公は探偵連盟なるものに所属する、国際的なライセンスを持っている職業探偵(?)である。

読み始めてすぐ、風土の描写からどうやら日本の土地ではない場所の話のようだと思ったのが不思議だ。筆者の筆力なのだろう。

この世界は一種のパラレルワールドで、主人公の生まれた国は「大災害」のあと「感染症パンデミック」があり、「新体制が敷かれた」のだという。つまり、架空の未来の日本だ。

主人公は今は生まれた国を離れて仕事をしており、ある国で急に家に帰れなくなってしまった。あったはずの道が忽然と消えてしまったのだ。

そして、体制が変わる前に離れた母国にも今のパスポートのままでは帰れない。

二重の意味で「帰れない探偵」である。

そして運命に従うまま、様々な国に渡っていろいろな人々と会い、仕事をする。

各国での仕事が連作短編集のようになっているのだが、その結末がこれはどういうことだったのだろう…という想像の余地を残しているところが面白い。

主人公はどこの国に行っても「いったい私はここで何をしているのだろう」という漠然とした虚しさのようなものを感じている。

逆に言うと、どこの国に行っても、環境や住む場所を変えても虚しさからは逃れられないということではないか。

そのことは読んでいる読者(私)を少し安心させる。

ここではないどこかに安らぎの土地があるのではないかと夢想してみる日もあるけれど、きっと自分はどこにいても同じことを考えてしまう。

ならば今ここで日々を暮らしていこうと思うのである。

 

そこに生活のすべてがあった『この村にとどまる』

この村にとどまる (新潮クレスト・ブックス)

この村にとどまる (新潮クレスト・ブックス)

 

映画にもなったパオロ・コニェッティ『帰れない山』以来のイタリア文学を読んだ。

マルコ・バルツァーノ著『この村にとどまる(原題Resto Qui)』は、今ではダムに沈んでしまった、かつて存在した村で生きた女性の話である。

 

主人公はイタリア北部チロル地方の山間の渓谷にあるクロン村に住むトリーナという女性である。物語は彼女が娘に宛てた書簡という形で進んでいく。

 

時代の波に揉まれ、主人公の身には実に色々なことが起こる。

1940年代、ファシズムの影響によりドイツ語圏であった村が強制的にイタリア化され、主人公と同じく地下墓所で教鞭を取っていた親友が流刑にされたり(親友だけ捕まってしまったのが理不尽だなと思った)、娘が小学生くらいに育つと「ここでは勉強ができない」と叔母夫婦について他所へ渡り、母である主人公のもとを去ってしまう。娘のその後については一切わからない。

その後戦争で二度目の徴兵を逃れようとする夫・エーリヒと共に山に身を隠しながら逃げ延びるも寒さや敵襲で死にかける。

ようやく戦争が終わり愛する自宅へ戻れたと思ったら、村をほぼすべて沈めるほどの大規模なダム建設というかつて頓挫したはずの計画が再び動き出しており、エーリヒはその抵抗活動に邁進するようになる。

とにかく激動の人生なのだ。

 

島国に住んでいると言語の違いというかすぐそこに言葉の違う人々が暮らしているということや、母語が脅かされるということがイメージしづらいと改めて思った。

娘のことも、故郷のことも、どうすればよかったのか?という正解はない。

戦争が愚かであるということは言うまでもないが。

まず娘のことについてはもちろん戦争の問題と地続きだけど、なんというか、個々の問題をすべて「権力のせい」に帰結させてしまっている気がしなくもない。

トリーナ(主人公)は高校まで行ってしかも先生をやろうとしていたのだから、もちろんそれなりの教育は受けている。

「娘に教育を受けさせるために他の土地へ渡る」と「故郷の村にとどまる(娘は失う)」はどちらかしか選択できなかったのだ。

こんな二者択一はあってはならないし、突如娘と生き別れてしまった母親の心情を察するには余りあるが。

また、村をダムにした人もそれに従った人も反対したエーリヒも自分の人生に必死だっただろう。

権力に屈して生まれた村を追われるというのは彼らにとって相当耐え難いことだったのだろう。遊牧民ならまだしも、そこに生活のすべてがあるような当時の彼らには。

と、頭ではわかっているのだが、問題は多数あれどとりあえず暮らしを脅かされてはいないこの現代日本で必要に迫られて生まれ育った土地から出ざるを得なかった自分は、故郷にしがみつきたいという気持ちもあまりなく、エーリヒらの故郷を守らんとするあまりの必死さや切実さを完全には理解できないでいる。理解したいししなくてはいけないという思いに駆られながらずっと読んでいた。想像力が欠如しているのだろう。

しかし古今東西にかかわらず、ある種の人にとって「そこに生まれて、そこに生活のすべてがある」という帰属意識は磁力のように目には見えないけれど強くて、抵抗のしようのないものなのだと思う。因縁と言ってもいい。

もしかすると、自分には「国」というものへの帰属意識があるからある程度身軽になれるのであって、戦争によって、あるいは時代によっていろんな国に併合されるだとか、強制的に言葉を変えさせられるような事が発生する土地では「国」ではなく「この地」こそが我らの還る場所という強い意識が生まれるのかもしれない。

推し活への違和感の正体『ポップ・ラッキー・ポトラッチ』

 

奥田亜希子さんの『ポップ・ラッキー・ポトラッチ』を読んだ。

とにかく比喩が独特で強烈な作家さんだ。

P4 HBの鉛筆で記した文字も、ゴキブリの羽のようにぎらぎら光る。

P29 愛奈は自分が人の役に立っているという快感に、冬の朝、我慢していた尿を勢いよく排出したあとのように震えた。

P47 「なんか……濡れた段ボールみたい」

「濡れた段ボール」は干しなすの佃煮を食べた感想である。

主人公の少し周りから外れてしまう人ぶりがコンビニ人間(村田紗耶香)や今村夏子作品に通じるものがある。

 

以下簡単なあらすじ。

主人公・相田愛奈の手元には宝くじで当選した2億円がある。だから仕事を辞めた。

一方で正しいことをしたいという気持ちがあるので日々慈善団体に寄付をしている。

そんな愛奈の住まいに、反りの合わない従姉妹の忍が生活に困って転がり込んでくる。

忍は「メン地下」に熱をあげていて、どんなにお金があっても足りない。

愛奈は自分にお金があることを知られぬよう、忍に「ほしいものリスト」の公開を促し、彼女の元には実際にそこから生活に必要なものもそうでないものも贈られてくるようになった。

そんな忍を見て、愛奈は贈り物と見返りについて考え始めるのであった。

 

愛奈は変わり者なので幼少の頃より忍からは毛嫌いされていたが、徐々に変化してくる忍の態度や、コロナの話題が遠い昔のようにも思えたけど最後の展開に生きてくる物語としての面白さもあった。この方の作品は初めて読んだけど、今後他の本も読んでみたくなった。

U-NEXTのウェブに作者インタビューがあったのでそちらも興味ぶかく読んだ。

ほしいものリストから贈答をしたことなど一部実体験が入っているようだ。

余談…U-NEXT出版の100分没頭シリーズの体裁、結構好きです。ペーパーバッグはあまり日本にないし…

欲を言えばもう少し安いと嬉しいけど書き下ろしだし出版不況だしこんなものか?(税込1000円程度)

 

タイトルにある「ポトラッチ」とは北米太平洋沿岸の先住民による宴の風習のことで、もとは「贈答」の意味があるのだという。

先住民のあいだでは、人からものをもらうことは、その人の魂を受け取ることと同義であるという。しかし実際は、あげっぱなし、もらいっぱなしでは心が落ち着かない人間の性質が魂云々の理屈を生んで文化として先住民族の生活に根付いていったと考えるほうが自然だろう、と作中で主人公と忍が出会う男性は言っている。

 

いきなりだが私は贈答が苦手だ。贈るのも贈られるのも。

自分が贈るときは「これ相手にとっていらない物だったら嫌だなあ」「押しつけと思われたくないなあ」「センスが悪いと思われたくないな」と強く思うし、そう思うということは、自分ももらった物に対して無自覚に同じように思ってしまっている(ことも往々にしてある)ということである。

私は人生のあらゆる場面で、「ジャッジされたくない」という自分自身の性質とずっとうまく付き合えていない。そこを浮き彫りにされるのも贈答が苦手な所以である。

(この点について作者インタビューで言及があり、大きく頷きながら読みました)

それと同時に、何かをもらってしまう「居心地の悪さ」のようなものもあって、それが上記のポトラッチの話に繋がってくるのだろう。

 

第二に、私の最近の考え事のテーマの一つに「推し活」がある。

自分は特に熱い気持ちで推している物事はないのだが、今の世の中なぜ猫も杓子も推し活なのだろうかと思う。

推し活については、生きがいとか社会の在り方とか色々な視点があるけれど、贈与/消費の観点から見つめたのがこの小説だと思う。

 

P97 「(略)個が薄れて、相手の顔が見えないことが重要なんだ。誰を助けているか、誰に助けられているのか、個人が分からない方が、互いに負担を感じにくい。情報があればあるほど、人は他人をジャッジしたくなるからね。人類が真に助け合えるとしたら、それは社会的な制度を通してでしかないと、僕は常々思ってる(略)」

主人公にポトラッチについて教えてくれた男性・トーラム氏の言葉である。

いいこと言うなあ。

忍が推しているメン地下アイドル等がよくやる「接触商法」がこの真逆を行っていることが、自分の覚える違和感の源なのだと思った。富が本当に正しく分配されないというか…そういう感じ。

トーラム氏の言うように、たくさんグッズを買うとか足繫くライブに通うとかそういう推し活は個人がわからないという点で理解できる。

 

一方で、

P135 (略)だいたい、正しくあろうとする自分の気持ちもまた、欲望のひとつに過ぎないのだ。

とも書かれている。

私の持論や、主人公がする寄付に対しての、正しい富の分配なんてものが存在するのか?という投げかけである。

P108 「すごいね。金って、人の行動に口出しできる権利も買えるだね。」

私の中で「投げ銭」という行為を不思議に思うのもこれに近い気持ちから来ていると思う。

他に回すべき経済があるのに、なぜ訳のわからない(ように私には見える)表現者みたいな人々のところにカネが集まるのか。

つらつらと書いてきて、自分は推し活=金銭消費活動になっていることに疑問を持っていたのだということがわかってきた。

「活動を支持しているから援助する」という図式が、「多額の金によって(その出資者の意図のままに)動かされる、動かざるを得なくなる」という図式に反転してしまう。それはもはやファンではない。

まあパトロンのように少数を囲って活動していくのならそれもありなのかもしれないが、それならそれでそういう活動形態ですと表現してほしい。叩き上げ、努力とか見せられても…と思ってしまう。

出資してもらったらどうしてもお返ししなくては、その人たちが喜ぶことをしなくては、という気持ちになるのが人間の本能だとしたら、(これがまさにポトラッチ)そこにファンと活動者の「不均衡」が生じ、歪みが発生してしまう。

 

作中で宝くじ売り場のおばちゃんである千石さんが「傾きのある関係がよろしくない」と言っていたが、本当に若い世代の人(に限らず人間関係が構築される社会に暮らすあらゆる人々)にはそのことを心の裡に留めておいてほしいと願う。

今年よかった本2023

2023年も終わりに近づいているので、今年読んだ本で印象に残っているものを振り返ってみる。

 

日本文学

 『口訳 古事記町田康講談社・2023)

今年中に読み終わりたかった本。

どうにか間に合った。

これに出会わなければ古事記を読むこともなかった。

日本のいわゆる八百万の神というのは、けっこう感情のままに生きており、ムチャクチャなことをやっている者も少なくない。

とくにヤマトタケル

他人から何かをぶんどったりとか騙したりとかが頻繁に出てくる。

わりと奔放なのである。

また、ピンチの状況なのに呑気とか、人間らしいところもあったりする。神なのに。

聖書や論語に比べると教訓めいた話が少なく、古典らしさが意外にも薄いということを知らなかった。

それらが町田康によるコテコテの?関西弁で書かれているのでよりそう感じるのかもしれない。

表現手段としての関西弁って改めて面白いなと思った。そういう表現を持っている方言話者をうらやましく思った。

それにしても、ムチャクチャやってる神々とその後の近現代日本人の国民性が合致しないなと思った。よくこんな抑制された日本人になったな。

それとも、神(力のあるもの)だからムチャクチャできるという構造は現代に通ずるものがあるのだろうか。それはわからない。

 

 『列』中村文則講談社・2023)

「不条理もの」と定義していいのかわからないが、自分はこの手の「なかなか物事が前に進まない」「何をさせられているのかもわからない」という状況の話や世界観がけっこう好きである。カフカの『城』とか、最近読んだ中では桐野夏生『日没』とか。

で、『列』である。とにかく並ぶのである。

列に憑りつかれている人間は最悪だ、という表現が出てくる。

自分のことを言われていると思った。

自分にとって列とは何か?なぜ並ぶのか?なぜ離脱できない、しようとしないのか?

作中最後にでてきたある言葉を、今年はおまじないのように唱えていた。

たびたび読み返したいと思う。

 

 『水車小屋のネネ』津村記久子毎日新聞出版・2023)

もちろん語りたい。

姉妹とヨウムの40年間を描いた話なのだが、現代って持っているものが完璧でないと息苦しさや肩身の狭さを感じたり、自分は人に影響を与えられる人間じゃないと落ち込んだりするじゃないですか。

でもそうでなくても生きていけるし、もちろん生きていていいし、目の前の人に何かすることができるということに目を向けさせてくれる優しい小説だった。

人に親切にすることの意味を改めて考えたりした。

津村さんの小説は、たとえば成功者とかキラキラした人々、もっと言うと自分の観測範囲内の「ふつうの人々」ばかり見ていると見過ごされてしまう人々の営みを書き出しているし、それが小説というものの一つの役割だと私は思っている。

なお、この小説で谷崎潤一郎賞を受賞した津村さんですが、その賞金を子供のための社会的事業のために寄付なさっています。

 

 『スター』朝井リョウ朝日文庫・2023)

『正欲』が話題の朝井リョウ氏だけど、私は断然こっちである。

氏が『桐島、部活やめるってよ』でチャットモンチーについて言及していたのを読んだ瞬間に、自分の中で同世代の表現者の代表だと確信した。

本書では学生時代に同じ志をもって活動していた二人の表現者のその先を描いている。

主人公は映像を作る人間だけど、どのジャンルについてもここで描かれているような対立構造は発生しうる。一言で言えば軟派と硬派とでもいうような。

しかしそれは対立ではなくてそれぞれの需要として成り立っている。

読んでいて付箋だらけになったし、言いたいことも多すぎるのだが、まとまらないのでここでは一部の引用にとどめる。

P369「私いままで、自分は”大は小を兼ねる”の”大”なんだって思ってた、(略)高度で確かな技術が一番素晴らしくて、それさえあればその下に連なるどんな欲求にも対応できるって思ってた。」

「そもそも欲求には大も小も上下もなくて、色んな種類があるだけなんだよね」

 

P371「誰かにとっての質と価値は、もう、その人以外には判断できないんだよ。それがどれだけ、自分にとって認められないものだとしても」

 

誰もが発信者になれる時代で何者でもなくいることに引け目を感じていたのだが、『スター』を読んで少し楽になれた気がした。

 

海外文学

 『地球の中心までトンネルを掘る』ケヴィン・ウィルソン(創元推理文庫・2023)

短編集は好きな作家か、古くからの名手と言われている人のものしか手に取らないのだが、これは私の好きな津村記久子さんが巻末にエッセイを寄せているということで読んでみた。

メチャクチャ面白かった。

設定はSFっぽいというか、まあ現実離れしていることがほとんどなのだが、でも本当にこんな世界があるような気がしてくる。

アルファベットの文字を拾い集める仕事の話が出てくるのだが(この説明では意味不明だと思うので読んでみてほしい)、そこで働く自分の姿が容易に想像できた。

自分はアメリカの生活なんて全く知らないんだけど、アメリカにもいるであろうイケてない人間の気持ちになっていたりして、異国の人間にもはっきりと場面が想像できるのは不思議だし文学のいいところだよなと思った。

アメリカでイケてなかったらさぞつらいんだろなといつも思う。

「イケてない」を定義づける要素がより複雑というか…厳しい国だと思う。

 

 

実用書

 『ちゃんと「読む」ための本 人生がうまくいく231の知的習慣』奥野宣之(PHP研究所・2023)

この本を読んで、週に一度は新聞を読んだり、出版社PR誌を定期購読するといった新しい習慣を取り入れてみたが、今のところ楽しく続いている。

そういう新しい風を取り入れるきっかけになったので選出。

 

ノンフィクション

 『サーカスの子』稲泉連講談社・2023)

幼少の頃、1年間サーカスの共同体で過ごした筆者による回想録と、元サーカス芸人たちへのインタビューで構成されている。

先ほどの津村さんの小説の話ではないが、ここにもその共同体の中でしか共有されない文化や生活がある。

サーカスに魅入られた人は、一生サーカスに憑りつかれるのだ、それほど強い求心力のようなものがサーカスにはあるのだと思った。

憑りつかれるというのは強い言葉だけど悪い意味ではなくて、インタビューを受けた元芸人たちはもうどうしようもなく身体も精神もサーカスに染まってしまって、退団(降りると言うようだ)した後は一般的な生活とのギャップに苦労するようである。

サーカスの人々にとってはサーカスこそ宿命だったのであり、我々も生まれや育った環境に左右された人生を送っていることは同じなのだと思った。

 

振り返ってみると講談社が多かったな。

まだまだあるけど、とりあえずこんなところで。

良いお年を!