すべては漂っている

本や日々のことについて書きます

今年よかった本2023

2023年も終わりに近づいているので、今年読んだ本で印象に残っているものを振り返ってみる。

日本文学

『口訳 古事記町田康講談社・2023)

今年中に読み終わりたかった本。

どうにか間に合った。

これに出会わなければ古事記を読むこともなかった。

日本のいわゆる八百万の神というのは、けっこう感情のままに生きており、ムチャクチャなことをやっている者も少なくない。

とくにヤマトタケル

他人から何かをぶんどったりとか騙したりとかが頻繁に出てくる。

わりと奔放なのである。

また、ピンチの状況なのに呑気とか、人間らしいところもあったりする。神なのに。

聖書や論語に比べると教訓めいた話が少なく、古典らしさが意外にも薄いということを知らなかった。

それらが町田康によるコテコテの?関西弁で書かれているのでよりそう感じるのかもしれない。

表現手段としての関西弁って改めて面白いなと思った。そういう表現を持っている方言話者をうらやましく思った。

それにしても、ムチャクチャやってる神々とその後の近現代日本人の国民性が合致しないなと思った。よくこんな抑制された日本人になったな。

それとも、神(力のあるもの)だからムチャクチャできるという構造は現代に通ずるものがあるのだろうか。それはわからない。

 

『列』中村文則講談社・2023)

「不条理もの」と定義していいのかわからないが、自分はこの手の「なかなか物事が前に進まない」「何をさせられているのかもわからない」という状況の話や世界観がけっこう好きである。カフカの『城』とか、最近読んだ中では桐野夏生『日没』とか。

で、『列』である。とにかく並ぶのである。

列に憑りつかれている人間は最悪だ、という表現が出てくる。

自分のことを言われていると思った。

自分にとって列とは何か?なぜ並ぶのか?なぜ離脱できない、しようとしないのか?

作中最後にでてきたある言葉を、今年はおまじないのように唱えていた。

たびたび読み返したいと思う。

 

『水車小屋のネネ』津村記久子毎日新聞出版・2023)

もちろん語りたい。

姉妹とヨウムの40年間を描いた話なのだが、現代って持っているものが完璧でないと息苦しさや肩身の狭さを感じたり、自分は人に影響を与えられる人間じゃないと落ち込んだりするじゃないですか。

でもそうでなくても生きていけるし、もちろん生きていていいし、目の前の人に何かすることができるということに目を向けさせてくれる優しい小説だった。

人に親切にすることの意味を改めて考えたりした。

津村さんの小説は、たとえば成功者とかキラキラした人々、もっと言うと自分の観測範囲内の「ふつうの人々」ばかり見ていると見過ごされてしまう人々の営みを書き出しているし、それが小説というものの一つの役割だと私は思っている。

なお、この小説で谷崎潤一郎賞を受賞した津村さんですが、その賞金を子供のための社会的事業のために寄付なさっています。

 

『スター』朝井リョウ朝日文庫・2023)

『正欲』が話題の朝井リョウ氏だけど、私は断然こっちである。

氏が『桐島、部活やめるってよ』でチャットモンチーについて言及していたのを読んだ瞬間に、自分の中で同世代の表現者の代表だと確信した。

本書では学生時代に同じ志をもって活動していた二人の表現者のその先を描いている。

主人公は映像を作る人間だけど、どのジャンルについてもここで描かれているような対立構造は発生しうる。一言で言えば軟派と硬派とでもいうような。

しかしそれは対立ではなくてそれぞれの需要として成り立っている。

読んでいて付箋だらけになったし、言いたいことも多すぎるのだが、まとまらないのでここでは一部の引用にとどめる。

P369「私いままで、自分は”大は小を兼ねる”の”大”なんだって思ってた、(略)高度で確かな技術が一番素晴らしくて、それさえあればその下に連なるどんな欲求にも対応できるって思ってた。」

「そもそも欲求には大も小も上下もなくて、色んな種類があるだけなんだよね」

 

P371「誰かにとっての質と価値は、もう、その人以外には判断できないんだよ。それがどれだけ、自分にとって認められないものだとしても」

 

誰もが発信者になれる時代で何者でもなくいることに引け目を感じていたのだが、『スター』を読んで少し楽になれた気がした。

 

海外文学

『地球の中心までトンネルを掘る』ケヴィン・ウィルソン(創元推理文庫・2023)

短編集は好きな作家か、古くからの名手と言われている人のものしか手に取らないのだが、これは私の好きな津村記久子さんが巻末にエッセイを寄せているということで読んでみた。

メチャクチャ面白かった。

設定はSFっぽいというか、まあ現実離れしていることがほとんどなのだが、でも本当にこんな世界があるような気がしてくる。

アルファベットの文字を拾い集める仕事の話が出てくるのだが(この説明では意味不明だと思うので読んでみてほしい)、そこで働く自分の姿が容易に想像できた。

自分はアメリカの生活なんて全く知らないんだけど、アメリカにもいるであろうイケてない人間の気持ちになっていたりして、異国の人間にもはっきりと場面が想像できるのは不思議だし文学のいいところだよなと思った。

アメリカでイケてなかったらさぞつらいんだろなといつも思う。

「イケてない」を定義づける要素がより複雑というか…厳しい国だと思う。

 

 

実用書

『ちゃんと「読む」ための本 人生がうまくいく231の知的習慣』奥野宣之(PHP研究所・2023)

この本を読んで、週に一度は新聞を読んだり、出版社PR誌を定期購読するといった新しい習慣を取り入れてみたが、今のところ楽しく続いている。

そういう新しい風を取り入れるきっかけになったので選出。

 

ノンフィクション

『サーカスの子』稲泉連講談社・2023)

幼少の頃、1年間サーカスの共同体で過ごした筆者による回想録と、元サーカス芸人たちへのインタビューで構成されている。

先ほどの津村さんの小説の話ではないが、ここにもその共同体の中でしか共有されない文化や生活がある。

サーカスに魅入られた人は、一生サーカスに憑りつかれるのだ、それほど強い求心力のようなものがサーカスにはあるのだと思った。

憑りつかれるというのは強い言葉だけど悪い意味ではなくて、インタビューを受けた元芸人たちはもうどうしようもなく身体も精神もサーカスに染まってしまって、退団(降りると言うようだ)した後は一般的な生活とのギャップに苦労するようである。

サーカスの人々にとってはサーカスこそ宿命だったのであり、我々も生まれや育った環境に左右された人生を送っていることは同じなのだと思った。

 

振り返ってみると講談社が多かったな。

まだまだあるけど、とりあえずこんなところで。

良いお年を!

 

 

 

 

小説家と作品は表裏一体か『うるさいこの音の全部』感想

 

ここ最近大好きな作家さんである高瀬隼子さんの最新作『うるさいこの音の全部』(文藝春秋・2023)を読んだ。

主人公はゲームセンターで働きつつ小説を書いている兼業作家だ。

作家デビューすることとなり、彼女が小説を書いていると知っている職場の人々や周りの友人との接し方に違和感のようなものをおぼえたり、「自分の領域」とでもいうものが脅かされたりする。

また、自分の中でもゲームセンター店員である部分と作家である部分が剥離と融合を繰り返し、そのことについて分析したりする。

 

小説家の心情を描いた小説というのは初めて読んだ。

単に小説家が主人公という話なら出会ったことがあるかもしれないが、そのこと自体が題材となっているのは案外珍しいように思う。

作中作がもう嫌な話すぎて、序盤の外枠の話の全容がわかっていない状態でそれを読んでいるとき、「うわ~高瀬さんってこんな話書く人だったんだ、ちょっとショック」とすら思ってしまってからその先を読んで、小説家と作品に出てくる人物やその人物の主張は必ずしもイコールではないということをもうまんまと体感させられて引っかけられたなと痛快に思った。

他でもない一読者の自分が作家と本の内容を同一視しすぎて好きになったり嫌いになったりしようとしている。本作の主人公・朝陽はそれが苦しい。

読者は作家とそのパーソナリティをどこまで切り離して考えるべきか、勝手に理想像を押し付けてはいないかという意外と考えたことのないテーマを提示された気がする。

小説家に限らず、好きな表現者が不祥事を起こしたら応援するかとか、推し文化の強く根付く現代社会では普遍的なテーマではある。

 

また、あくまで早見有日(主人公の筆名)という架空の作家の心の裡を見ることで、小説家というものがどういう心持ちで作品を書き、自分と自分から生まれたものとの間で距離をはかっているかを知った。

この心情描写の丁寧さというかひとつずつ整理して書いていく書き方に誠実さのようなものを感じるので私は高瀬さんの作品が好きである。

今回も読んでいるうちに本が付箋だらけになってしまい、思わず「わかるわかる!!」と言いながら読んだりした。

例えば、お互い出会ってから歳を重ねているので変わってきているはずの旧友とどう付き合うか、例えば他人のことなのについ自分に置き換えて考えてしまうこと、例えば誰かと話すときにその場で空気を読んでそれっぽいことを言ってしまうことについて、もう各所に身に覚えのあることが書かれていて、ますます高瀬隼子という人が好きになってしまう。この小説の内容をふまえると勝手に好きにならないでと思うんだろうなと思うけど、小説家として読まれることは第一にあると主人公を通してわかったのでこれからも読んでいくし好きだと思い続けていく。

 

今回はもう思ったまま一気に書いてしまってろくに推敲していないので、自分でも散らかった文章になっているなと思うけどとりあえず感想を残したいという気持ちが勝った結果である。

歴史とは無数の断片の堆積物である 『歴史の屑拾い』感想

歴史の屑拾い

『歴史の屑拾い』(藤原辰史・講談社・2022)

 

発売当初からずっと読みたかった藤原辰史『歴史の屑拾い』を読んだ。

藤原さんのことは『中学生から知りたいウクライナのこと』(小山哲 藤原辰史・ミシマ社・2022)で知った。これが良書だったのだ。一言で言うと、とても冷静な本だったのだ。冷静でありながら真摯。

 

私たちは、できるかぎり、中心からの目線と同一化しないで、中心からまなざされる側にも立って歴史を眺めたいという認識で一致しています。(『中学生から知りたいウクライナのこと』9ページ)

 

はっとした。なぜ世界規模の話になると自分は大多数側にいる人間だという「無意識の意識」とでも言えるものが生まれてしまうのだろう。

そのような視点を自分に与えた藤原さんのエッセイなら読まなくては、と思っていたのだが、発売から1年が経過してしまった。

 

『歴史の屑拾い』は、歴史学者である著者の随筆集である。

歴史とは無数の断片の堆積物であり、屑拾いとは無数の断片を拾い集めることを指す。

考えてみれば確かにそうで、記録されてこなかった歴史のほうが遙かに多い。

 

無数の断片を手にして、ようやく歴史叙述の担い手は安全な位置から歴史を眺める超越的な身振りを捨て去ることができるのではないかと私は考えるようになった。(145ページ)

 

先ほど引用した一文と繋がっていると感じた。

すでに叙述された歴史というのはあまりにも大きな物語になりすぎているのだ。

これからの歴史学および歴史を生業にする人々は常に歴史というものの持つこの普遍的な部分と対峙していくのだと思う。

 

自分の頭では難しいと感じる部分も多々あったので、何年かしてまた読み返してみたいと思うけど、果たしてその時に理解できるようになっているかは自信がない。

それでもその時々でまた得るものがあるだろうとは思う。

屑拾いが大事であるというのは歴史に限ったことではなく、例えば自分が日々の中で感じる「無名の人間の日常を描いた感動的ではない小説が読みたい」という欲求や、「インターネットってなんでもわかるようで意外と生身の人間の意見って少ないよな」という気持ちに通じるものがあると思う。

そもそも小説の中の日常もネット上の個人の感情や意見の表明も大きく見れば歴史の一部であるという言い方もできそうだ。

私のこの文章も取るに足らない屑の一つとして今ここに存在しているのである。

と言うとここで今ブログなぞを書いている意味もあるように感じてくるのだった。

家族はしがらむものである『統合失調症の一族』感想

統合失調症の一族: 遺伝か、環境か

統合失調症の一族: 遺伝か、環境か

 

統合失調症の一族 遺伝か、環境か』
  ロバート・コルカー (著),柴田 裕之 (訳)早川書房(2022)

 

以前から気になっていた本をついに読む機会を得たので読んでみた。

以下感想と言えるほどまとまっていない雑感。

 

商品説明に「衝撃の真相が明らかになる」と書いてあったが、最初に言っておくと別に明らかにはなっていない。

また、「遺伝か、環境か」というサブタイトルが付いているが、現代においてもこの病気については依然としてまだわからないことだらけであるということは確かだ。

舞台は1970年代アメリカで、ギャルヴィンという姓のある夫妻の12人(!)もの実子のうち、6名が相次いで精神疾患を発症する。

半数もの子供が病に冒されてしまったのはなぜなのか。

という話なのだが、結論から言うと先にも述べたように今も研究が続いているのではっきりした答えは本書の中には書かれていない。

ただ、染色体に共通の変異があって、それが病を引き起こす一因となっていることはこれまで尽力してきた研究者の努力の結果からわかってきているということである。

 

医学的なことは自分の専門外なのであまりコメントできないのだが、「環境」の部分、つまり12人兄弟で乳母もなしに母親のほぼ独力によって育てられた子供たちについて想像するといろいろ思うものがある。

まず周囲の反対を押し切って12人の子を持とうというギャルヴィン夫妻の考え方だが、子が多ければ多いほど暮らしは完璧なものになると彼らは信じていたようだ。

子供というものの存在に必要以上に幻想的な希望を託してしまっているのではないか、子供っぽい、夢見がちな考え方だと思うのだがどうだろうか。

また、父親のドンは軍人で家を空けがちだった。

子育てに参画できないのなら、夫婦で話し合って家政婦を雇うなどのいい環境を整備するのが親の務めではと思うが、それはあくまで現代を生きる我々の考え方で、少し昔はとにかく子宝こそ無条件に祝福されるものだったのだろう。

独りで子を育て、病に苦しんだ息子たちのケアも決して惜しまなかった母親のミミの苦労は想像するに余りあるが、この両親にはなんとなく同情できない部分がある。

まず長男のドナルドに異変が起こるのだが、次々と兄弟たちが精神を病んで問題を起こすので、健康な子供たちはいつもそれらにおびえたり、自宅から自分を遠ざけなければならなかった。

特に末の2人の娘は明らかに愛情不足で育っている。(彼女らは病まなかった)

子供にとって、家が安らげる場所でないというのはあんまりである。

もし、ギャルヴィン一家に統合失調症を引き起こす遺伝的な要素がなかったとしても、この環境では別の問題も起こったかもしれないなと思ってしまうのである。

親のエゴで産み落とされた子供たちの不幸というか…

本書の主人公とも言える末娘のリンジー(出生名メアリー)はそれらを乗り越え、現在も兄弟たちに献身的に尽くしている。

もちろんそこに至るまでには壮絶な半生があるわけだが…

自分が幸せな暮らしをしていると病んだ兄弟に対して引け目を感じるというのである。

よく事故や災害で生き残った人が罪悪感をおぼえると言うが、それに近い感情であると言える。

また、リンジーにとって過去と対峙することは自分の中のインナーチャイルドをケアする行為でもあると思われる。

そしてそんな妹を見てすぐ上の姉マーガレットや他の健康な兄弟たちも複雑な感情をもつことになるのだ。

リンジーの気持ちも他のきょうだいの気持ちもわかる。

どちらが正しくて悪いということはない。

手に負えない兄弟から離れて自分の人生を生きたっていいし、リンジーのように納得できるまで過去や家族に真っ向から向き合う権利だってある。

アメリカは個人主義の国だと思っていたが、家族のしがらみが切り離せないものであるということは海の向こうでも同じなのだなと思った。

 

余談だがアメリカにおいて、子供たちが薬物に手を染めてしまうことはどれくらいよくあることなのだろうか。よく映画とかで学生がカジュアルにやってるけど…

 

読み終えて、病気が深刻な状態にあるときの患者がどのような状態でどんな考え方をするのかということについて自分はもっと知りたかったのだなと思った。

本書はあまりそういう部分には触れられていないため、実際に彼らがどんな苦悩を抱えていたのかは想像が難しい。

だからこそ、それをずっと間近で見て対応してきた母親ミミの大変さがさほど伝わってこず、(あと手に負えなくなったらとにかく入院させている印象も持った)ギャルヴィン家の場合は無計画な家族計画がそもそもよくなかったのではないかという感想を持ってしまっている。

 

話が逸れるが、お笑いコンビ2700の八十島さんが病気のときの体験を語っている映像を見たことがあるのだが、壮絶かつ興味深かった。

不可解と思われる行動にも当人たちにとっては当然筋が通っているのである。

その道筋を知りたいという思いが自分には少なからずあった。

自分はそのような記述を期待していたのだと思う。

 

最後に訳文がなんとも読みづらく、「○○さえしていた(おそらく強調のeven)」、「○○していないときは△△した(=○○か△△ばかりしていた)」といった文章が続くので意味を取るのに何回も読み直さなくてはならない箇所があったのが気になった。

 

あなたもきっと忘れていたことを思い出す『まぬけなこよみ』感想

私の最も好きな作家さんである津村記久子さんの歳時記エッセイ『まぬけなこよみ』(平凡社・2017年)が文庫になったので、単行本も持っているけどこちらも早速買って読んだ。(※挿絵のイラストレーターさんが単行本と文庫で違うのでどちらもオススメ)

 

担当編集さん?が提示した季節を表すことばから津村さんがひとつピックアップし、短いエッセイとして連載していたもの。

調べてはいないが、文庫化に際して多少の書き換えや追記があると思われる。

(例・コロナのことなど)

連載初期は津村さんがまだ兼業作家として一般企業に在職中だったり、離職後間もなかったりしていて、多少リアルタイムとの剥離は感じる。逆にこんな数年で世の中って少しずつ変わっているんだな。

というか私が津村さんのファンすぎて、すべての著作とかなりのインタビューを追いかけているので、この小説を書いていた頃にはもう会社員の仕事を辞めているとか、今は住む場所が変わっているとか知りすぎているのだ。

 

まず自分にとって興味深いのは、初詣、十日えびす、花見、おでんなどのエピソードに登場する関西のスポットや文化たちだ。

来年の初詣は行ったことのない関西の神社に行ってみようかなと思う。まだ今年が始まったばかりなのに。えびすさんも楽しそうだ。ぜひ体験してみたい。ベビーカステラがおすすめらしい。

「この袋(ベビーカステラのえびすさんイラストの袋のこと)で誰かにCDを貸したい」という感性はうまく言えないけど私も持ち合わせているもので、そういう共感がまた好きなんだよなーと思う。

いつか津村さんの小説に出てくる大阪のスポットをめぐる旅に行きたいと思っている。

おでんは関西では関東煮(かんとだき)と呼ぶってこの本で初めて知ったのですが本当ですか?

 

読んでいて思うことは、本当に昔のこと、特に子供時代のことをよく覚えておられるなということだ。

「王国」という短編があって(『サキの忘れ物』2020年・新潮社に所収)、子供が自分のかさぶたに王国を見出すという話でとても好きなのだけど、それを読んだときに、子供の思考回路をここまで克明に表現できるとは小説家恐るべしと思ったのだが、今回『まぬけなこよみ』を改めて読んでまたその感嘆をおぼえた。

巻末の解説の方も言っていたけど、私のような一般人の昔の記憶の引き金になる文章が書けるのが津村さんのすごいところだ。

なお、ご本人はあとがきで、歳時記と言ってもそうそうぴったりなエピソードのある暮らしでもないので、過去の人生を総動員して書いているというようなことを言っていた。

私は『まぬけなこよみ』を読まなかったら思い出さなかったようなことをたくさん思い出した。

私は幼少の頃、星座の図鑑を読んでいて津村さんと同じく自分の星座に一等星どころか二等星も三等星もないことを気にしていたのだが、自分もそうだった!!と稲妻に打たれたように思い出した。今にして思えばなんでそんなことを…と思うけど、あの頃は真剣だった。あのような切羽詰まった感じは大人になった今はもうない。切羽詰まった状態というものがあるとしたら子供の頃より当然深刻なので、とても耐えられそうにないため、あえて切羽詰まらないように生きているといったところだろうか。

他にもようち園の卒園式でお休みで会えない友達がいて悲しかったこと、その日にもらった担任の先生手作りペンダントの色形、その子とたまたま高校で再会できたこと、中学の卒業式のあとに合格発表があったこと、その日は雪だったこと、進路が別れてしまう友達と子供だけで遠くの遊園地に行ったことなどなど。

もうすべてが雪崩のように押し寄せてきた。

 

『まぬけなこよみ』を読むと、昔の自分や妙にこだわっていたことなどが高確率で思い出されること請け合いです。

自分の驕りに気付いた『限界ニュータウン』感想

自分は生まれ育った首都圏から、必要に迫られて地方都市に移住した人間なのだが、未だに首都圏への未練のようなものを捨てられていないことを自覚している。

そのため地方経済や都市との比較などがなんとなく自分の中の考え事のメインテーマのひとつになりつつある。

そこで目についた本が『限界ニュータウン 荒廃する超郊外の分譲地』(吉川祐介・太郎次郎社エディタス・2022)だ。

 

本の内容

この本は筆者が住んでいる千葉県東部の限界分譲地に関するまとめやルポのようなものである。

およそ1970年代に開発ブームで無計画に切り拓いた土地が、そのまま住宅が建ったり建たなかったり入居者が入ったり入らなかったり、売買で次々といろいろな人や法人のもとに渡った末に忘れ去られて持ち主不明になっていたり、何の手も加えられないまま放置されたりした土地の集合体が限界分譲地、または限界ニュータウンである。

なお、「限界分譲地」と「限界ニュータウン」の違いに明確な定義はなく、筆者としては、その分譲地が住宅地としてある程度の機能を有していて、そこに住まう人々の自治会のようなコミュニティが存在する場合に「限界ニュータウン」としているようだ。

千葉県東部にはこのような限界分譲地が数多くあり、筆者のような、車を保持している大人二人だけの生活ならそれなりに暮らせるような場所から、全部が荒れに荒れてインフラもままならず、とてもじゃないが生活できないという場所まで、一口に限界分譲地と言ってもその幅はかなりありそうである。

限界分譲地においては、分譲された土地が一旦投機目的の地主を挟んでまた売りに出されるというような流れを辿ることが多く、住民の転入時期がバラバラなことが特徴である。

それゆえ住民同士のコミュニティも生まれづらく、公共物などの管理が行き届かなくなり、さらに荒廃していくという負のスパイラルを生むのだそうだ。

感想

千葉県は東京への玄関口のあたりから、西へは千葉市、東へは成田空港手前のあたりまでは結構便利で都会なイメージがあるが、そのさらに東側ではこのようなことが起こっているとはまったく知らなかった。

水道がないため井戸を使っていて、トイレも汲み取り式や浄化槽で…という暮らしはもう前時代の産物だと思っていた。(幼少時ギリギリよそのお宅でぼっとん便所を見たことがある自分のイメージでは)

本文によれば、千葉県には険しい山岳地帯がなく、小規模な町が点在していることが水道の普及が進まない原因の一つではないかということだが、この千葉県という土地が持つ地理的な特徴については盲点だった。

私が今住んでいる県は、山は山、住宅地は住宅地と区別されている。というか、人が住めそうな限られた平地を争うようにして住宅地にしてきたように見える。

それに対して千葉県。たしかに歴史的に自然とそういう人の集まり方(各地にぽつぽつと集落ができる)をしていそうだなと思う。

日本はある程度均一化されていると思い込んでいたのに、身近な千葉県にインフラもままならない限界分譲地のような場所があるとは。

なんと世間を知らないことか。本当の世の中というものがまるで見えていない。

じゃあ人口を都市部に集めればいいではないか、と短絡的に思いそうになるのだが、それを筆者は否定している。

限界分譲地(に限らずどんな場所でも)誰しも理由があってその場所に住んでいるのだ。

ああ自分は首都圏に生まれた驕りがあったのだなと思った。たまたま生まれた場所がそこだっただけなのに!

パンがなければお菓子を食べればいいじゃない(不便なら便利な場所に住めばいいじゃない)的な首都圏出身者の認識バイアスである。

どうしてわざわざ不便な場所に住んでいるのか?とか、未来がないなら打ち棄ててしまえばいいのでは?なんて愚問だし乱暴なのだ。そこに住む人のことを全く考えていない。激しく反省した。

 

筆者は自分のバックボーンを顧みたときの、「実家」というものへの希求心が今の暮らしに繋がっていると言う。

家を持って定住したいという希望を叶えられる土地の中で、あらゆることに折り合いをつけて見つけた場所が今の住まいなのだろう。

また、限界分譲地出身者の、「これがふつうだった」という証言は貴重だと思った。それも住み続ける理由のひとつである。

そんな限界ニュータウン(または手付かずの単なる地面の区画の集合体)だが、ネットの発達によって再び不動産市場に流れているのだという。

それらの土地がこれからどのような道筋を辿るのかは予測がつかない。

最初に読んだときには、なぜ先時代の人々が金儲け目的でこしらえた負の遺産を、今の世代が問題視しながらも取り扱わねばならないのかと思ったが、これからは一人一人がどこに住むかとか、どんな生活をするか、果ては都市や地方の在り方ということを主体的に考えなくてはいけない局面に来ているのかもしれないと思った。

 

受験生はボトラーだったらしい『科挙―中国の試験地獄』感想

著者 : 宮崎市定
発売日 : 2003-02-25

科挙―中国の試験地獄』宮崎市定(中公文庫BIBLIO

かれこれ5年以上読みたいと思っていて、ようやく手に取った。

新書の方もあるが、手元に来たのが文庫の方だった。

科挙――覚えてますか?世界史の授業でお目にかかるこの単語。

 

さて読んでみるとこれが、歴史学とは何ぞやということを示す名著である。

これが中国史の大家の文章か…こんなにすっと入ってくるとは思わなかった。

「ここではAをBとして話を始める」という風に進めていくので読みやすいし文章も小気味よい。

科挙にもカンニングあったんだって、とか、めっちゃ年齢ごまかしてる受験生いたんだって、とか、試験会場で幽霊騒ぎがあったんだって、とか、科挙の受験生ってまさかのボトラーだったんだって、とか、人に言いたくなる豆知識もついた。

あまりのスケールの大きさ、仰々しさ、途方もなさに笑いすらこみあげてくる。

 

科挙に対する評価の章では、以下のような文章がある。

 

>しかし単に悪口の言い放しでは歴史に対する真の評価とはいえない。本当に正しく歴史を理解するためには、いちど対象をのりこえて、もっと大処高処に立って全体的な立場から考察しなおす必要があろう。(P230)

 

>いうまでもなく、軍隊は国家を保護するためにこそ存在すべきで、それが国家、国民の支配者になられてはたまらない。(略)いったん政治権力を握ってしまった軍隊が、どんな速度で堕落腐敗するものかは、すでに、何度か証明ずみの事実である。(P232)

これは大事な一節ですね。

 

古代中国では政治家=軍人だったが、軍人ではなく試験で募った優秀な人物を中央で登用する科挙の制度は、軍人勢力を押さえて中央が確実に指揮権を握っておくという点において優れているとしている。

1984年初版の本だけど、現代の我々にももちろん有用なメッセージである。

 

>もともと教育に金がかかることは当たりまえのことであり、その設備が少ないということは、何としても政治力の不足に原因している。えてして世の親たちは個人的な負担、たとえば予備校へ通う費用ならば何年でも我慢するが、全般的な教育への投資にははなはだ不熱心である。そしてただ個人の立場で問題を解決しようとするのは、まさに自分だけよければいいという科挙受験者の態度である。(P241)

 

政治家の皆さん、子供にいい教育を受けさせたい親御さん、全員読んでください。

また、著者の故郷である長野県は古くからある程度多くとった分の税金を公共の教育設備に充てたことで教育に関する土壌が整った歴史があり、それが底上げになるという話もあった。それはそうだと思う。各自余裕がないのは確かなのだが。

科挙ではやはり家の経済力がものを言ったそうだ。受かったら受かったでお祝いやその先の準備に金がかかるし。本当に現代も変わっていない。

全員で上がっていこうぜ、という余裕がなくなると格差が広がっていく…という弱点を現代人もまだ克服できていないのだ。

ということを考えると歴史学って大事だよなあと月並みながら思う。

 

最後に余談なのだが、巻末の海外誌による解説が異様に辛口だった。
海外の批評家は批評と言えばここが欠点でそれをどうするべきかのアドバイスをしなくてはいけないと思っているのだろうか?

絶賛の解説しか目にしないし解説とはそういうものだと思っていたので驚いた。
いやでも例えば海外の就職の紹介状なんかは絶賛も大いにするイメージもあるし、とにかく極端というか強い言葉が好まれるのかも。

 

本棚に置いておきたい本なので、図書館で借りた後に買いました。