家族はしがらむものである『統合失調症の一族』感想
『統合失調症の一族 遺伝か、環境か』
ロバート・コルカー (著),柴田 裕之 (訳)早川書房(2022)
以前から気になっていた本をついに読む機会を得たので読んでみた。
以下感想と言えるほどまとまっていない雑感。
商品説明に「衝撃の真相が明らかになる」と書いてあったが、最初に言っておくと別に明らかにはなっていない。
また、「遺伝か、環境か」というサブタイトルが付いているが、現代においてもこの病気については依然としてまだわからないことだらけであるということは確かだ。
舞台は1970年代アメリカで、ギャルヴィンという姓のある夫妻の12人(!)もの実子のうち、6名が相次いで精神疾患を発症する。
半数もの子供が病に冒されてしまったのはなぜなのか。
という話なのだが、結論から言うと先にも述べたように今も研究が続いているのではっきりした答えは本書の中には書かれていない。
ただ、染色体に共通の変異があって、それが病を引き起こす一因となっていることはこれまで尽力してきた研究者の努力の結果からわかってきているということである。
医学的なことは自分の専門外なのであまりコメントできないのだが、「環境」の部分、つまり12人兄弟で乳母もなしに母親のほぼ独力によって育てられた子供たちについて想像するといろいろ思うものがある。
まず周囲の反対を押し切って12人の子を持とうというギャルヴィン夫妻の考え方だが、子が多ければ多いほど暮らしは完璧なものになると彼らは信じていたようだ。
子供というものの存在に必要以上に幻想的な希望を託してしまっているのではないか、子供っぽい、夢見がちな考え方だと思うのだがどうだろうか。
また、父親のドンは軍人で家を空けがちだった。
子育てに参画できないのなら、夫婦で話し合って家政婦を雇うなどのいい環境を整備するのが親の務めではと思うが、それはあくまで現代を生きる我々の考え方で、少し昔はとにかく子宝こそ無条件に祝福されるものだったのだろう。
独りで子を育て、病に苦しんだ息子たちのケアも決して惜しまなかった母親のミミの苦労は想像するに余りあるが、この両親にはなんとなく同情できない部分がある。
まず長男のドナルドに異変が起こるのだが、次々と兄弟たちが精神を病んで問題を起こすので、健康な子供たちはいつもそれらにおびえたり、自宅から自分を遠ざけなければならなかった。
特に末の2人の娘は明らかに愛情不足で育っている。(彼女らは病まなかった)
子供にとって、家が安らげる場所でないというのはあんまりである。
もし、ギャルヴィン一家に統合失調症を引き起こす遺伝的な要素がなかったとしても、この環境では別の問題も起こったかもしれないなと思ってしまうのである。
親のエゴで産み落とされた子供たちの不幸というか…
本書の主人公とも言える末娘のリンジー(出生名メアリー)はそれらを乗り越え、現在も兄弟たちに献身的に尽くしている。
もちろんそこに至るまでには壮絶な半生があるわけだが…
自分が幸せな暮らしをしていると病んだ兄弟に対して引け目を感じるというのである。
よく事故や災害で生き残った人が罪悪感をおぼえると言うが、それに近い感情であると言える。
また、リンジーにとって過去と対峙することは自分の中のインナーチャイルドをケアする行為でもあると思われる。
そしてそんな妹を見てすぐ上の姉マーガレットや他の健康な兄弟たちも複雑な感情をもつことになるのだ。
リンジーの気持ちも他のきょうだいの気持ちもわかる。
どちらが正しくて悪いということはない。
手に負えない兄弟から離れて自分の人生を生きたっていいし、リンジーのように納得できるまで過去や家族に真っ向から向き合う権利だってある。
アメリカは個人主義の国だと思っていたが、家族のしがらみが切り離せないものであるということは海の向こうでも同じなのだなと思った。
余談だがアメリカにおいて、子供たちが薬物に手を染めてしまうことはどれくらいよくあることなのだろうか。よく映画とかで学生がカジュアルにやってるけど…
読み終えて、病気が深刻な状態にあるときの患者がどのような状態でどんな考え方をするのかということについて自分はもっと知りたかったのだなと思った。
本書はあまりそういう部分には触れられていないため、実際に彼らがどんな苦悩を抱えていたのかは想像が難しい。
だからこそ、それをずっと間近で見て対応してきた母親ミミの大変さがさほど伝わってこず、(あと手に負えなくなったらとにかく入院させている印象も持った)ギャルヴィン家の場合は無計画な家族計画がそもそもよくなかったのではないかという感想を持ってしまっている。
話が逸れるが、お笑いコンビ2700の八十島さんが病気のときの体験を語っている映像を見たことがあるのだが、壮絶かつ興味深かった。
不可解と思われる行動にも当人たちにとっては当然筋が通っているのである。
その道筋を知りたいという思いが自分には少なからずあった。
自分はそのような記述を期待していたのだと思う。
最後に訳文がなんとも読みづらく、「○○さえしていた(おそらく強調のeven)」、「○○していないときは△△した(=○○か△△ばかりしていた)」といった文章が続くので意味を取るのに何回も読み直さなくてはならない箇所があったのが気になった。