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小説家と作品は表裏一体か『うるさいこの音の全部』感想

 

ここ最近大好きな作家さんである高瀬隼子さんの最新作『うるさいこの音の全部』(文藝春秋・2023)を読んだ。

主人公はゲームセンターで働きつつ小説を書いている兼業作家だ。

作家デビューすることとなり、彼女が小説を書いていると知っている職場の人々や周りの友人との接し方に違和感のようなものをおぼえたり、「自分の領域」とでもいうものが脅かされたりする。

また、自分の中でもゲームセンター店員である部分と作家である部分が剥離と融合を繰り返し、そのことについて分析したりする。

 

小説家の心情を描いた小説というのは初めて読んだ。

単に小説家が主人公という話なら出会ったことがあるかもしれないが、そのこと自体が題材となっているのは案外珍しいように思う。

作中作がもう嫌な話すぎて、序盤の外枠の話の全容がわかっていない状態でそれを読んでいるとき、「うわ~高瀬さんってこんな話書く人だったんだ、ちょっとショック」とすら思ってしまってからその先を読んで、小説家と作品に出てくる人物やその人物の主張は必ずしもイコールではないということをもうまんまと体感させられて引っかけられたなと痛快に思った。

他でもない一読者の自分が作家と本の内容を同一視しすぎて好きになったり嫌いになったりしようとしている。本作の主人公・朝陽はそれが苦しい。

読者は作家とそのパーソナリティをどこまで切り離して考えるべきか、勝手に理想像を押し付けてはいないかという意外と考えたことのないテーマを提示された気がする。

小説家に限らず、好きな表現者が不祥事を起こしたら応援するかとか、推し文化の強く根付く現代社会では普遍的なテーマではある。

 

また、あくまで早見有日(主人公の筆名)という架空の作家の心の裡を見ることで、小説家というものがどういう心持ちで作品を書き、自分と自分から生まれたものとの間で距離をはかっているかを知った。

この心情描写の丁寧さというかひとつずつ整理して書いていく書き方に誠実さのようなものを感じるので私は高瀬さんの作品が好きである。

今回も読んでいるうちに本が付箋だらけになってしまい、思わず「わかるわかる!!」と言いながら読んだりした。

例えば、お互い出会ってから歳を重ねているので変わってきているはずの旧友とどう付き合うか、例えば他人のことなのについ自分に置き換えて考えてしまうこと、例えば誰かと話すときにその場で空気を読んでそれっぽいことを言ってしまうことについて、もう各所に身に覚えのあることが書かれていて、ますます高瀬隼子という人が好きになってしまう。この小説の内容をふまえると勝手に好きにならないでと思うんだろうなと思うけど、小説家として読まれることは第一にあると主人公を通してわかったのでこれからも読んでいくし好きだと思い続けていく。

 

今回はもう思ったまま一気に書いてしまってろくに推敲していないので、自分でも散らかった文章になっているなと思うけどとりあえず感想を残したいという気持ちが勝った結果である。