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自分の驕りに気付いた『限界ニュータウン』感想

自分は生まれ育った首都圏から、必要に迫られて地方都市に移住した人間なのだが、未だに首都圏への未練のようなものを捨てられていないことを自覚している。

そのため地方経済や都市との比較などがなんとなく自分の中の考え事のメインテーマのひとつになりつつある。

そこで目についた本が『限界ニュータウン 荒廃する超郊外の分譲地』(吉川祐介・太郎次郎社エディタス・2022)だ。

 

本の内容

この本は筆者が住んでいる千葉県東部の限界分譲地に関するまとめやルポのようなものである。

およそ1970年代に開発ブームで無計画に切り拓いた土地が、そのまま住宅が建ったり建たなかったり入居者が入ったり入らなかったり、売買で次々といろいろな人や法人のもとに渡った末に忘れ去られて持ち主不明になっていたり、何の手も加えられないまま放置されたりした土地の集合体が限界分譲地、または限界ニュータウンである。

なお、「限界分譲地」と「限界ニュータウン」の違いに明確な定義はなく、筆者としては、その分譲地が住宅地としてある程度の機能を有していて、そこに住まう人々の自治会のようなコミュニティが存在する場合に「限界ニュータウン」としているようだ。

千葉県東部にはこのような限界分譲地が数多くあり、筆者のような、車を保持している大人二人だけの生活ならそれなりに暮らせるような場所から、全部が荒れに荒れてインフラもままならず、とてもじゃないが生活できないという場所まで、一口に限界分譲地と言ってもその幅はかなりありそうである。

限界分譲地においては、分譲された土地が一旦投機目的の地主を挟んでまた売りに出されるというような流れを辿ることが多く、住民の転入時期がバラバラなことが特徴である。

それゆえ住民同士のコミュニティも生まれづらく、公共物などの管理が行き届かなくなり、さらに荒廃していくという負のスパイラルを生むのだそうだ。

感想

千葉県は東京への玄関口のあたりから、西へは千葉市、東へは成田空港手前のあたりまでは結構便利で都会なイメージがあるが、そのさらに東側ではこのようなことが起こっているとはまったく知らなかった。

水道がないため井戸を使っていて、トイレも汲み取り式や浄化槽で…という暮らしはもう前時代の産物だと思っていた。(幼少時ギリギリよそのお宅でぼっとん便所を見たことがある自分のイメージでは)

本文によれば、千葉県には険しい山岳地帯がなく、小規模な町が点在していることが水道の普及が進まない原因の一つではないかということだが、この千葉県という土地が持つ地理的な特徴については盲点だった。

私が今住んでいる県は、山は山、住宅地は住宅地と区別されている。というか、人が住めそうな限られた平地を争うようにして住宅地にしてきたように見える。

それに対して千葉県。たしかに歴史的に自然とそういう人の集まり方(各地にぽつぽつと集落ができる)をしていそうだなと思う。

日本はある程度均一化されていると思い込んでいたのに、身近な千葉県にインフラもままならない限界分譲地のような場所があるとは。

なんと世間を知らないことか。本当の世の中というものがまるで見えていない。

じゃあ人口を都市部に集めればいいではないか、と短絡的に思いそうになるのだが、それを筆者は否定している。

限界分譲地(に限らずどんな場所でも)誰しも理由があってその場所に住んでいるのだ。

ああ自分は首都圏に生まれた驕りがあったのだなと思った。たまたま生まれた場所がそこだっただけなのに!

パンがなければお菓子を食べればいいじゃない(不便なら便利な場所に住めばいいじゃない)的な首都圏出身者の認識バイアスである。

どうしてわざわざ不便な場所に住んでいるのか?とか、未来がないなら打ち棄ててしまえばいいのでは?なんて愚問だし乱暴なのだ。そこに住む人のことを全く考えていない。激しく反省した。

 

筆者は自分のバックボーンを顧みたときの、「実家」というものへの希求心が今の暮らしに繋がっていると言う。

家を持って定住したいという希望を叶えられる土地の中で、あらゆることに折り合いをつけて見つけた場所が今の住まいなのだろう。

また、限界分譲地出身者の、「これがふつうだった」という証言は貴重だと思った。それも住み続ける理由のひとつである。

そんな限界ニュータウン(または手付かずの単なる地面の区画の集合体)だが、ネットの発達によって再び不動産市場に流れているのだという。

それらの土地がこれからどのような道筋を辿るのかは予測がつかない。

最初に読んだときには、なぜ先時代の人々が金儲け目的でこしらえた負の遺産を、今の世代が問題視しながらも取り扱わねばならないのかと思ったが、これからは一人一人がどこに住むかとか、どんな生活をするか、果ては都市や地方の在り方ということを主体的に考えなくてはいけない局面に来ているのかもしれないと思った。